top of page

 

ONE TRACK MINDS

 

​トラックを駆ける魂と、偏狭な心の人々。

セメンヤとチャンド。そして、公衆による詮索という暴力

SEMENYA, CHAND, AND THE VIOLENCE OF PUBLIC SCRUTINY

キャスター・セメンヤさん

CASTER SEMENYA & DUTEE CHAND

 南アフリカのランナー、キャスター・セメンヤさんと、インドのスプリンター、デュティ・チャンドさん。このふたりのオリンピック選手に起こったことをお話しましょう。 

 

 ここで主な語り手になるのは、スタンフォード大学生命倫理学研究員のカトリーナ・カルカジスさん。彼女は長年、DSDs(体の性の様々な発達:性分化疾患)と呼ばれる体の状態を持った人々の支援を行ってきている人物です。今回、デュティ・チャンドさんが世界陸上競技連盟の勧告により女子陸上大会の出場資格を失いかけた時も、彼女はチャンドさんの弁護に立ち、スポーツ仲裁裁判所にて、チャンドさんの出場資格を勝ち取りました。

 カトリーナさんの語りに入る前に、ここでまずは、3つの「ONE TRACK MINDS」について考えましょう。

THE VIOLENCE OF PUBLIC SCRUTINY

 五輪への出場が認められたにもかかわらず、何故今でも、彼女たちのかけがえのない身体に探りを入れるようなメディアの詮索が相次ぎ、彼女たちは汚名を着せ続けられるのでしょうか?そして、なぜ様々な人々が、「彼女たち自身のこと」を、まるで自分が判断できるように、いろいろな「意見」を熱狂的に発しているのでしょうか?

 ある人々は、彼女たちは「女性として認められない」のだから、女性競技に出るべきではないと言います。もちろん、彼女たちの尊厳を損なっているかどうかという意識はあまりありません。

 

 あるいは、彼女たちのような「身体」を元にして、スポーツやオリンピックの男女別のあり方を問う人たちもいます。そういう人々は、出るべきではないと吹聴する人々よりもずっと寛容です。ですが、果たしてそれは彼女たちの「想い」「望み」なのでしょうか?それは果たして、「誰の」望みなのでしょうか?

 “ONE-TRACK MIND”とは、「偏狭な心」、「一方通行の心」、そしてまた「一途さ」を表す言葉です。セメンヤさんやチャンドさんについて語る時、実はあなたは彼女たちを語っているのではなく、自分がどういう人間かを語っているのです。

キャスター・セメンヤさん
デュティ・チャンドさん

あなたは、どの"ONE TRACK MIND"ですか?

3つの "ONE TRACK MINDS"

キャスター・セメンヤさん

ONE TRACK MIND

「偏狭な心」

「彼女たちは、女性の一般的な定義から外れている。見ろ、彼女たちは一般的な女性よりアンドロゲン値が高い。子宮はあるのか?染色体は?卵巣なのか?精巣なのか?ほら見ろ、彼女たちは女性と認められない。女性じゃない人間は、女性競技を認められるべきではない」

「女性の定義って何?スカート履いてたら女性ってこと?いろいろな女性がいるじゃない。私は女性。それ以上言うことなんてない。私はこういう女性なの」

BBCドキュメンタリーインタビューより

あなたの「女性の身体」の定義は、とても狭量ではありませんか?あなたのそんな心ない言葉は、彼女たちの女性としての尊厳を損なっています。

女性であるには速すぎるからと…​

ONE TRACK MIND

「一方通行の心」

「彼女たちは、男でも女でもない。世の中には男でも女でもない人がいるのです。私たちは男女以外の第三の性別を認めねばならない。男と女の境界線なんてないのです。オリンピックやスポーツの男女の区別は無くすべきなのです」

彼女たちを気遣っていたただいているのですね!ですが、果たしてそれは、「彼女たちの」望みなのでしょうか?

 

果たして彼女たちは「男でも女でもない性別」を求めているのでしょうか?あるいは皆さんのそういう意見は、彼女たちの「女性としての尊厳」を損なうことになりませんか?もちろん誰も彼女たちの本心なんて分かりません。ですがまずは、彼女たち自身の言葉に耳を傾けてみてください!

キャスター・セメンヤさん

「私は偽物じゃない。私は自分がなりたくないものになりたくない。他人が望んでるようなものになりたくない」

BBCインタビューより

ONE TRACK MIND

「一途な魂」

セメンヤさんの友人

「私、彼女のことですごく泣いちゃって。そしたらキャスターが言ったの。”なんで泣くの?”って。彼女は私の涙は何回も見てるけど、私は彼女が泣いてるの見たことない。一度も。私いつも願ってるの。彼女は絶対幸せになるべきだって。彼女は絶対あきらめちゃいけないって。前を向いて走っていくべきだって」

セメンヤさんの友人

セメンヤさんとお母さん

「誰かがあなたについて話すことなんて信じなくていい、あんな人達の言葉は一切聞かなくていいって言いました。あなたは自分のことは自分で分かってるんだからって。それに、娘には謙虚であるように言いました。自分が持って生まれたものだけにプライドを持たないでって」

セメンヤさんのお母さん

キャスター・セメンヤさん

「コーチが真っ直ぐに言ってくれた。”金メダルはお前のものだ。走って掴んで戻って来い”って」

「他人がどう思うかなんて関係ない。他人が考えることなんて間違い。私はランナーだし、私がベストを尽くすのは走ることだけ。簡単でしょ?」

キャスター・セメンヤさん

セメンヤさんとネルソン・マンデラ

(セメンヤはお手本になる?)「うーん、分かんない。彼女は走るのが好きなだけだろ?お手本なんかになりたくないんじゃない?だって彼女は見世物じゃないもん」

南アフリカ マフメド君(10歳)

 

「ネルソン・マンデラは人種差別と戦って、セメンヤはスポーツで女性差別と戦ったの。彼女は7年戦い続けたの」

 

南アフリカ ザーラさん(10歳)

セメンヤとチャンド。

そして、公衆による詮索という暴力

SEMENYA, CHAND, AND THE VIOLENCE OF PUBLIC SCRUTINY 

中距離ランナーのキャスター・セメンヤと短距離ランナーのデュティ・チャンドは、他の女性選手との競技は許可できないというアスリート権威達からの勧告に抵抗し、無事リオ五輪に出場予定だ。彼女たちは理事協会からの妨害に果敢に立ち向かい、出場を勝ち取った。しかし、ふたりは未だにメディアや他の選手達から性別疑惑にさらされている。もういい加減、このふたりの女性についての語り方を変えるべき時ではないか?

カトリーナ・カルカジスさん

カトリーナ・カルカジス(Katrina Karkazis)。スタンフォード大学生命倫理学センターシニア研究員。長年、DSDs(体の性の様々な発達:性分化疾患)を持つ人々の支援を行ってきた。キャスター・セメンヤさんと同じく「性別疑惑」という汚名を着せられたインドの女性短距離走者デュティ・チャンドさんの弁護に立ち、彼女の女子陸上五輪出場を勝ち取る。

 キャスター・セメンヤは女性である。しかし、これに疑いを持つ人もいるかもしれない。6月15日モナコでの女子800メートルで圧倒的な勝利を納めたこの南アフリカの選手の周辺に巻き起こされた弾幕のようなコメント群を見る限りは。「セメンヤが金メダルを目指すに連れ、性別議論が沸騰」という炎上焚付のヘッドラインは、南アフリカのメディアからフランス24それにヤフースポーツにまで飛び火した。

 

 しかし、実際は「性別(ジェンダー)議論」なんてもはや存在しないのだ。事実、国際陸上競技連盟(IAAF)は、2010年にセメンヤの女子競技出場を許可している。

 しかし大衆は、この選手が大論争から離脱するのを許さなかった。この時期、彼女は自分自身の言葉でこう言っている。

 

「不当で侵害的な視線に晒されました。私の存在に関わる最も深くプライベートな詳細に対して。それは私の選手としての権利だけでなく、私の尊厳とプライバシーの権利を含む、人間としての根本的な権利を侵すものでした」

 この6年後、リオ五輪をひかえた今でも、セメンヤのレース記録についてのほぼすべての記事が、彼女の性別に対する詮索と疑問を執拗に書き立てている。

 このような詮索的なストーリーは有害だ。メディアによる彼女に対する残酷で恥ずべき詮索は今も続いている。彼女は、またもや燃え上がった詮索とゴシップの災禍をじっと耐えているのだ。このようなメディア詮索は、もうそろそろ止めなくてはならない。

「性別疑惑」

「セメンヤが金メダルを目指すに連れ、性別議論が沸騰」とタイトルされた、南アフリカ・Times magazine2016年7月17日付のネット記事。既にIAAFはセメンヤ選手の請願により、彼女の女子競技の出場を認めているにも関わらず、「性別議論沸騰」とするこの記事は世界中のネットメディアに拡散した。もちろん、このようなタイトルや、彼女の体の性について巻き起こる議論・意見を、彼女自身がどう体験しているかは誰も考えないままに。彼女の尊厳は、今でもなお損なわれ続けている。

 リオ五輪女子100メートルに出場予定の、インドの五輪の36年の歴史初の女性五輪選手となろうスプリンター、デュティ・チャンドも同じような公衆の詮索の視線に晒されている。

 

 彼女もまた女性だ。しかし、今月上旬のニューヨーク・タイムスマガジンの表紙に載った彼女を見れば、それを疑う読者もいるだろう。彼女の映し身に、351ポイントのPepto-Bismolのピンクフォントでデカデカと被せられた「XX」「XY」という記号を見れば。多くの人々が女性・男性の「体の性(sex)」を表す染色体だと理解している記号だ。

 この、「女性選手に対する屈辱的な性別検査」とタイトルされた記事は、IAAFの高アンドロゲン上限規制を激しく批判するもので、性別疑惑の視線に晒されたチャンドの屈辱を表すものではあった。しかしこの表紙は、チャンドの体の性の構造(sex)と性別(gender)、それに性別同一性(gender identity)への疑惑を呼び起こすものだった。結局は、記事自体が批判しようとしたことを、そのまま有害にやってみせただけになっているのだ。

 2014年。チャンドはIAAFの規制のもと、検査を受け、出場資格を取り消された。不公平に有利になっているはずだという仮説を元に、女性のテストステロン値に上限を定めた規制によって。スポーツ仲裁裁判所はチャンドの訴えを受けて裁定を行い、IAAFの規制を保留させた。現在女性選手は、Tレベルを低くするような、実際は不必要な医学的介入を迫られることなく競技に出ている。

​ チャンドとセメンヤは、何の障害もなくリオ五輪で競技する権利を得ている。他の選手達皆と同様に、長年の専心的なトレーニングと不屈の努力の後に。彼女たちは既に世界スポーツの最高裁の支持も得ているのだ。ふたりは不屈の勇気と決意で偏見を乗り越えてきた。

 彼女たちは、我々の賞賛と尊敬に値する存在である。彼女たちの勇気だけでなく、類まれなアスリートとしての才能に対して賞賛と尊敬を得るべき存在なのだ。

​ しかし、ふたりの人間性を奪うような詮索の視線と意見・コメントの嵐、描写は、リオ出場を間近にして、ますます激しくなってきている。

 この執拗なまでの意見・コメントの嵐には、ふたりの女性の肉体を隅々まで徹底的にジロジロ見回し、彼女たちの存在意識に疑いの目を向け、ふたりのプライバシーを侵襲しようとするメディアと大衆の欲望が見え隠れしている。しかも、そのような欲望に基づいた自らの行いには全く罪のかけらもないかのような無邪気さだ。このような無謬を装う視線は、ふたりの女性選手の外性器の形状はどうなっているのだろうか??卵巣なのか?精巣なのか??XXなのか?XYなのか??という執拗な「のぞき見」となり、彼女たちの容姿とパフォーマンスを元に、ホルモンレベルはどうだこうだと、あれこれした憶測・決め付けを大量に溢れさせている。

 

 彼女たちは競技に出ることを許されるべきなのかどうか、あまつさえ、彼女たちを女性と見なしていいのかどうかという議論さえ溢れかえっている状況だ。あるジャーナリストは、詮索の視線にさらされているふたりの女性を「カテゴリー化不能(Uncategorised)」とまで呼びつけた。もちろん、ふたりの邪魔をしているという意識は、無い。

351ポイントのPepto-Bismolのピンクフォントでデカデカと被せられた「XX」「XY」という記号

The New York Times Magazine、2016年7月号の表紙。記事の内容自体は、チャンドに対する性別疑惑・性別検査を激しく非難するものであったが、彼女の写し身の上に無造作に被せられた「XX」「XY」という記号は、記事の内容とは全く逆に、彼女の女性としての尊厳を激しく損なうものであった。大衆という「観客」が何を求めているのか?というセンセーショナリズムを端的に表す例と言える。果たして彼女はこのような表象をどのように体験しているのか?これは、ひとりひとりの人間としての想像力の問題になる。

「カテゴリー化不能(Uncategorised)」

​ 2016年7月9日付けTHE IRISH TIMESの記事。セメンヤ選手やチャンド選手は、アンドロゲンも高値で、完全な女性とは言えず、男でも女でもない「インターセックス」なのだから、「カテゴリー化不能枠」を設けて、そこで競技するべきだとした。

 「”インターセックス(中性)”選手は女性として競技するのを許されるのか?」と題する記事。しかしセメンヤ自身は自分を「インターセックス」とは一言も語っていない。彼女の私的な領域は,まるでそれが当たり前であるかのように,人々の「議論の対象」となっていった。

「いいえ。彼女が戦っているのはそんなことじゃない。」

彼女が挑んでいるのは性別二元制ではない。

​ 2016年8月2日付けAP通信の「南アフリカのセメンヤは、スポーツ界の性別二元制と戦っている」というタイトルを冠した記事に対して、インタビューを受けていたカトリーナさんによるTwitterでの反論。セメンヤさん自身がどう想っているかは全く関係なく、彼女の私的な身体を、メディアが大上段に先走り、自分の「モノ」であるかのように使ってしまう状況は今も変わらない。

 したがって、IAAFの規制により検査対象とされる女性の大多数が、南諸国の住人の、肌が褐色もしくは黒い女性であることも驚くべきことではないだろう。

 公的な検査でチャンドとセメンヤにだけ行われた処置。そしてそれに続く、黒人女性の身体を医学めいた話で人種差別的に利用し、まるで「情報娯楽エンターテイメント」のように取り扱う薄ら寒くなるような記事の数々。(女性アスリートをまるで何かの検体であるかのように扱う)この種の詮索の目線は、有色人女性に対する思い込みだけで構成された性的特徴を科学的な魅力として扱ってきた長い歴史が醸しだす腐臭と、不気味なほど同じ匂いがしている。

 

 たとえば、サージェイ・バートマンを「ホッテントット・ビーナス」として公衆の視線の前に「陳列」した19世紀初頭の例や、J・マリオン・シムズによる、黒人女性奴隷に対して公衆の面前で行われた婦人科検査や手術の例と同じ匂いなのだ。

彼女が戦わざるを得なくなっているものは何なのか?

 

「自分の尊厳を傷つけられて怖かった。他人が私について考えることを、私自身には止められない状況だった。私自身のことのはずなのに」

「私は偽物じゃない。私は自分がなりたくないものになりたくない。他人が望んでるようなものになりたくない」

「誰かが「いいや、アイツは男みたいだ」とか何とか言う。でもそんなことで私を止めることはできない。だってそれは私の問題じゃないから。そんなこと言うのはその人の問題だから」

「女の子も男の子も生まれ様はそれぞれでしょ?それをわざわざその子のところに行って責めたりする?神様を責める?それぞれの生まれ様は誰の間違いでもないじゃない」

 

「女性の定義って何?スカート履いてたら女性ってこと?いろいろな女性がいるじゃない。私は女性。それ以上言うことなんてない。私はこういう女性なの」

 

BBCドキュメンタリーインタビューより

「情報娯楽エンターテイメント」

​ 2012年6月THE WIREの記事。IOCの治療勧告後、セメンヤ選手が、いかに「より女性的になったか」、写真で検証しようとしている。

「ホッテントット・ビーナス」

 19世紀、南アフリカ・コイコイ族の女性、サージェイ・バートマンは、フランス自然史博物館の動物研究者たちによって、生物学的に貴重な「標本」として注目され、全裸の姿を描かれただけではなく、「ホッテントット(コイコイ族の蔑称)の女性の陰唇は肥大している」という説を確かめるために、無理矢理に性器が観察されるということが起きた。彼女の死後、性器の型がとられ、脳や性器はアルコール漬けにされ、全身骨格も保存されて、長く博物館で一般公開がされていた。フランスが「所有」していた彼女の「標本」は、アパルトハイトを廃止した後の南アフリカ政府の請求により2002年に返還され、現在は生まれ故郷の墓に安置されている。

身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌」より引用。

 

 性器や裸の写真を撮るといった人間のこのような「標本化」「モノ化」「自己目的化」(Objectification)は、セメンヤやチャンドが持つとされているDSDs(性分化疾患)を有する女性や男性に対しても行われることがあった。たとえば現在の日本でも、アンドロゲン不応症というXY染色体でも女性に生まれ育った黒人女性に、脇毛がないことを示すために撮られた全裸写真が用いられる場面があった。(リンク先にはつらい画像が含まれています。当事者家族の方は閲覧を注意してください)。これは「人権」についての講演の場面であったが、大変興味深いことに、この黒人女性をこういう辱めにあわせている人権侵害・非人間化(dehumanization)については問われていない。

 北側諸国の多くの人々は、個人的生活に疑問に付され、自分の人間関係や行動の自由を事細かに調査・検査され、安全感を脅かされるようになることは好まないはずだ。彼女たちの伝え方が生みだすスティグマ(社会的偏見)は、ふたりの社会的排斥や、これまでのキャリアの喪失と収入減少の恐れ、結婚の可能性もなくなり、自分が自分自身であるという彼女たちの深い確信さえ脅かしてしまうのだ。

 リオでのふたりの体験はどのようなものになるのか?そしてその後のふたりの人生はどうなってしまうのか?何が何でも自分の好きなようにふたりをラベリングしたがり、科学的知見はもちろんふたりの想いをも無視するメディアとスポーツ界を、ふたりは切り抜けられるのだろうか?

 ふたりに対する意見・コメントやイメージの嵐は、はっきりと問題だ。彼女たちの存在のあり方、自己意識に疑問を投げかけることは、後にふたりがどちらもはっきりと、「とても傷ついた。自分を損なわれた」と述べた通り、暴力そのものなのである。たとえば今年の7月下旬、イギリスのマラソンランナー、ポーラ・ラドクリフが、セメンヤについて全く無知で人種差別的なコメントをBBCの番組で発した。BBCはセメンヤに対するサポーティブな議論の中で、こういうコメントがあったということを引用しただけだった。しかし世界中のニュースメディアは、セメンヤに対する攻撃的なコメントだけを増幅して伝える有様だった。

「性別疑惑」にさらされた女性選手はふたりだけではない。

2006年の第15回アジア競技大会陸上女子800メートルで2位に入賞したインドのサンティ・ソウンダラジャンは、南インドの実家でレンガ窯業で生計を立てる貧しい両親と4人の兄弟と共に銀メダルの栄光を噛み締めているはずだった。しかし代わりに、競技者としてのキャリアは事実上終わりを告げ、思いやりに欠け無神経な関係者に囲まれて公共の場で屈辱の日々を送る羽目に陥った。

ソウンダラジャンは、競技後に行われた性別検査で不合格となり、アジア・五輪評議会から銀メダル剥奪の処分が下されたのだ。インド五輪協は、実際には男性であるのに女性として競技に出場したソウンダラジャンはスポーツ界を欺いたと話した。彼女は翌年に自殺未遂を起こす。

「みんなの私を見る目が一気に変わりました。”彼女は男なのか?”、”男が女装してるんだろ?”と。とても傷つきました。私と私の家族の人生は滅茶苦茶にされました。」

 

 

 

現在、セメンヤ選手とチャンド選手の活躍に合わせて、サンティ・ソウンダラジャンさんの業績と名誉回復のための署名活動が行われています。ビデオを御覧頂いて、日本語で大丈夫です、ぜひ署名にご協力ください!

サンティさん署名ページ

 セメンヤに対する侮辱を止めるよう、ラドクリフを後援するスポンサーに、彼女に謝罪を要請するよう嘆願する人もいた。

 

 我々には、キャスター・セメンヤとデュティ・チャンドについて話をしたり記事を書く時、負わねばならないひとりの人間としての義務がある。

 

 ふたりの女性のストーリーを書く立場にある者も、公共の場でそのストーリーに意見・コメントする者にも、ふたりの女性の魂と身体、そして彼女たちの主体性を侵害・レイプすることを厳に控える、倫理的な責任を負っているのだ。

 

Katrina Karkazis 29 July 2016

チャンドさんとセメンヤさん。リオ五輪にて。

リオ五輪女子100Mを走り切ったデュティ・チャンドさんからカトリーナさんに送られた画像。「性別疑惑」という汚名を着せられ苦難の道を歩むことになった、ふたりの女性アスリートのリオでの邂逅の場面。セメンヤさんがIOCの規制を受けず、そのままの女性の体で今回の五輪に出場できたのは、この小さな少女が切り開いた道であった。

「この写真が全て。うれしくて涙が出てきます。デュティとキャスターです!」

 

Caster Semenya

The GOLD Medalist of Rio Olympic 2016

ONE TRACK MINDS

SEMENYA, CHAND, AND THE VIOLENCE OF PUBLIC SCRUTINY

bottom of page