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ターナー症候群の女性たちの物語(2)



「あなたはあなたのままで愛される資格がある」

エリンさんの物語



 私の名前はエリン・セリオ。カリフォルニア州サンディエゴ出身です。私はモザイク型のターナー症候群を持っていて、生まれる前に診断されました。2023年に30歳になります!


 私は小型飛行機で飛ぶことができるパイロットと結婚していて、とてもしあわせな生活を送っています。一緒にカリフォルニアの山やビーチを飛び回るのが好きです。夫と私は何年も前に街の劇場で出会い、今でも一緒にショーを観に行くのが好きです。ちょっと面白いことですが、私が「ストレンジャー・シングス」というNetflixのショーのキャラクター、スティーブ・ハリントンにちなんで名付けた女の子の猫、スティーヴィーを飼っています。


 20代を通してどれだけ困難な時期でも、私は自分がどれだけ立ち向かってきたかを誇りに思っています。ほとんどの人と同様に、20代は多くの大きな変化と自分自身を見つける不安や悩みでいっぱいでした。引っ越し、恋愛関係の破綻、幼児教育の修士課程に戻る決断、そして未来の夫との再会も経験しました。30歳になろうとしている今、私はこの人生にとてもしあわせで感謝しています。


 私が最も尊敬している人は母です。私の母はいつも寄り添ってくれました。母はいつも何でも相談できる存在でした。私はとても支えになる両親を持っていて幸運です。私のお気に入りの作家はクリスティン・ハンナです。彼女の本『ナイチンゲール』は第二次世界大戦中のフランスでのふたりの姉妹の体験が書かれたもので、とても感動的でした。サスペンスや、感情を揺さぶる本が好きです。


 高校生時代は、ターナー症候群にかなりの不安を抱えていました。自分の見た目、みんなと同じくらい賢いのかどうかをいつも心配していました。他の州の大学に行くことで自信をつけ、ずっと自立した人間になることもできました。年を重ねるにつれて、自分を身体的に受け入れ、学業でもついていけることを自分に証明しました。


 若いときの自分に与えたいアドバイスは、身長や外見などの小さなことにあまりストレスをかけないようにすることです。最終的には、あなたはあなたのままで愛される資格があるのですから。



 


「勇気を持つ決意からすべては始まる」

ケイティさんの物語





 ターナー症候群との旅は私が5歳のときに始まりました。身長が伸びず、靴や服のサイズが合わなかったのです。両親(特に母親の直感で)は、私の身長の低さの原因を知るために医者に連れて行かなければならないと感じていました。


 染色体核型検査の結果、私にはモザイク型のターナー症候群があることが判明しました。モザイク型のターナー症候群では、すべての細胞が欠損または変化した染色体ではなく、一般的な46本の染色体の細胞と45本の染色体の細胞の両方があるのです。つまり、モザイク型の場合は、ターナー症候群の人と同じように影響を受けるとは限らず、一部の症状は軽度かもしれません。


 ですが私は5歳のとき、自分には心臓の欠陥と腎臓の異常があること、そして毎日成長ホルモンの注射を受ける必要があることを知りました。心臓の手術が必要かもしれないと言われ、他の同じ年齢の女の子と同じように成熟しないかもしれないし、数学や他の科目で学級での学びが難しいかもしれないとも言われました。


 とても怖かった。両親も不安に思っていました。将来、他の症状がどれだけ深刻になるか、そしてこれが長期的にどういう意味を持つか分からなかったのです。つらそうにしている私を見かねた母親は、私を別のターナー症候群の女性、エイプリルのところに連れて行きました。エイプリルは私と同じ年齢で、既に何度も心臓の手術を受けていました。彼女に会って彼女が既にどれだけのことを乗り越えてきたかを見て、私の恐れは勇気に変わりました。


 私は親と医師から必要なサポートを得て、エイプリルの勇気と共に、ターナー症候群によって私の人生を引き戻さないようにする決意をしました。最初の成長ホルモンの注射後に泣かなかったとき、自分自身を誇りに思いました。高校で高度な数学の授業を受け、3つのスポーツで競技者になれたとき、私はさらに誇りに思いました。身長が150センチでも、私はダイナミックなアスリートで、いつも競争の準備ができていました。


 大学では、ミシガン州立大学のローイング(訳者注:ボート競技)チームに低身長でも加わることができました。ローイングは身長が低い人にとって素晴らしいスポーツであり、その経験を通じて一生の親友に出会うことができました。私はコミュニケーション学の学位を取得してMSUを卒業し、現在はレノボの人材パートナーとして働いています。


 ターナー症候群の旅を振り返ると、それはすべて勇気であり、どんなラベルにも自分を定義させないという決意から始まりました。今でも同じモットーで生きています。どんなラベルも私に誰であるかを教えることはできず、私は常に自分でいることにしあわせを感じています。



 


「ネガティブな考えにだまされないで」

スーザンさんの物語





 私の名前はスーザン・ホフマン。これが私の物語です。私は今54歳。14歳のとき、通常の成長ができないことがわかり、ターナー症候群(TS)(染色体核型 45,X)をわずらっていることがわかりました。エストロゲン療法は私が他の同年齢の女の子たちに馴染むのを助けてくれました。でも、身長は低いままでした。成長ホルモン療法は私が若い頃には存在しなかったのです。140センチしか成長しませんでした。でも幸いなことに、私の両親はあまり背が高くなかったんです。父親は170センチで、亡くなった母親は157センチでした。


 私はテキサス州ヒューストンで生まれ、そこは母親の出身地でもあります。私は2人きょうだいの末っ子です。私たちの家族は私が5歳のときにテキサスから引っ越しました。父親の仕事の関係でいくつかの異なる州に引っ越し、小学校の最初の数年間は転校ばかりで、幼稚園では年齢に対して社交的に未熟だったため、1年やり直すことになりました。なので、卒業するまでの間、学校の中でいつも他の子どもたちより1歳年上で、恥ずかしい思いをしていました。


 言うまでもなく、学校ではいじめに遭いました。身長のことでです。私はそれに打ち勝つつもりでした。11歳のときに父親の故郷であるペンシルベニア州ハリスバーグに引っ越しました。父親は引退したいと思っていた仕事を見つけたので、残りの学校の日々はそこで過ごすことができました。


 学校ではもちろん、数学が最も苦手な科目で、国語と音楽が一番得意でした。3歳から歌が好きで、11歳から声楽のレッスンを受けています。高校の合唱団や地元のミュージカルで歌うことを楽しみました。合唱でいくつかのソロを得たこともあります。合唱祭でソリストとして賞を受賞したこともあるんですよ。


 高校を卒業した後は、ピッツバーグ大学に進学しました。ピッツバーグではロシア語とドイツ語の二重専攻をし、引き続き声楽のレッスンを受け、ピッツバーグのハインツ・チャペル合唱団で歌い続けました。


 学士号を取得した後、保険の必要性を考慮して、フリーランスの翻訳家やミュージシャンになることは難しいと判断し、大学院に進みました。ピッツバーグで図書館学修士号を取得し、ペンシルベニア州立大学でドイツ語の修士号も取得しました。


 短期間だけ地元の図書館員として働いた後シカゴに移り、シカゴ公立図書館で働き始め、今ではほぼ23年になります! 私は自立した生活をしていました。図書館では音楽とアート部門で働いています。今でも教会の合唱団で歌い続け、声楽のレッスンを受け、時々ソロコンサートも開催しています。オペラも楽しんでいます。シカゴが提供してくれる文化的で芸術的なチャンスが、とっても楽しいです。クリエイティブ・ライティングやギターのクラスも!


 シカゴやその他の地域でターナー症候群の姉妹たちと知り合えたことも幸運でした。私の健康の問題は管理可能です。20代からコレステロールと血圧の薬を服用し、甲状腺の薬も服用しています。39歳のときに、心臓の中に上室性頻拍を引き起こす余分な経路がある WPW(ウォルフ-パーキンソン-ホワイト)症候群に対する治療を受けました。それ以外は心臓は健康です。心臓のMRIも受けました。この写真は私が2022年10月に54歳の誕生日を迎えたときのもので、私の54回目の公転周期の旅です。自分を大切にし、自分の中のネガティブな考えにだまされないでください! あなたは人生で成功できます!



 


「私は共感を教えるツールとして活用しています」

メアリアンさんの物語





 私の名前はメアリアン・シーロ。16歳の時にターナー症候群(TS)と診断されました。


 それ以前から、私は自分が他の人とちがっていることを知っていました。私にとっては、ターナーの診断は、やっと自分の背が低い理由がわかって安心しました。ターナー症候群のコミュニティは私にひとりではないことを教えてくれました。


 私は最近、カリフォルニア州のペパーダイン大学で教育学の学士号と教員資格を取得しました。現在は小学校6年生の教師です。


 私は自分が少しちがう存在であることや他の人々の偏見が,自分の目標達成を妨げることを拒否しました。ターナーとの旅で学んだことをとおして、若い人たちにポジティブな影響を与えるために教育者になることを選びました。私は生徒たちにターナー症候群について教育し、それを共感を教えるツールとして活用しています。私たちバタフライ(訳者注:欧米ではターナー症候群の女の子・女性は空を飛ぶ美しい蝶にたとえられています)は何でもできます!



 


「人はみな素晴らしく違っている」

メリッサさんの物語






 私の名前はメリッサ・オルムステッド。52歳です。私は5歳のときに診断されました。母親が私を医者に連れて行き、さまざまな検査を受け、最終的に新しい小児科医に会って染色体検査を依頼するまでの2年間でした。答えはついに出ました。私はターナー症候群(TS)を患っていました。


 たしかにターナーは私の一部ではありますが、私は自分を染色体の状態以上のものとして考えるのが好きです。私は音楽が好きで、料理やハイキングも楽しんでおり、友達や家族と一緒にいることが大好きです。私は教育の修士号を持っており、現在は教会の子どもと家族向けのプログラムを指導しています。私は母の娘であり、姉妹であり、おばであり、友達でもあります。


 私は5歳のときに大動脈の縮窄手術を受けました。耳に複数のチューブを入れられたことからの傷跡で補聴器をつけています。成長ホルモンは受けませんでしたが、身長は152センチにまでなりました。私の兄弟は193センチと195センチです...(笑)。 間違いなく身長差がありますね。


 私は甲状腺、血圧、抗凝固剤の薬を服用しています。学業面で少し苦労しましたが、子どもたちと一緒に仕事をすることと、子どもたちの成長を共にすることに、情熱を見つけました。さっき言ったとおり、ターナー症候群は確かに私の一部です。ですがターナー症候群は私に共感の能力を与えてくれました。私は知っています。人はみな素晴らしく違っていて、唯一無二で、それぞれが世界に特別な才能をもっていることを。



 


「サポートグループでの30年」

ローズマリーさんの物語





 こんにちは。私の名前はローズマリー・スター・モリスです。1979年に17歳でターナー症候群(TS)と診断されました。最初の10年間、私は診断を受け入れるのに苦労しましたが、最後には同じターナー症候群を持つ人を知りたくなりました。


 遺伝カウンセラーから、アメリカターナー症候群協会(TSSUS)の連絡先を教えてもらいました。当時、TSSUSはミネソタに本部を置いていました。その電話番号にかけ、当時のエグゼクティブ・ディレクターであるリンと話しました。彼女はその後、カリフォルニアに住んでいる協会のメンバーのリストを送ってくれました。そのリストは約1年間しまい込んでいたのですが、また取り出す決意をしたのです。


 私はその中の一人であるエヴァに電話をかけ、彼女とサンフランシスコの駅で会うことになりました。彼女はその頃サンフランシスコに住んでおり、駅の近くのエリアに住んでいました。エヴァはサンフランシスコのターナー症候群のサポートグループを立ち上げたいと思っていたのですが、ひとりでは難しいと思っていたのです。私たちの最初のミーティングは、オークランドのカイザー・パーマネンテで開催され、後は歴史をつくっていくことになりました。


 私たちは1998年にサンフランシスコで開催されたアメリカ・ターナー症候群全国大会の主催者に選ばれました。その大会にはおそらく400から500人が参加していたと思います。過去30年間、私はターナーを持つ女性たちのために提唱を続け、スタンフォードこども病院、スタンフォード大学、バレーこども病院、マデラ大学、ロサンゼルスこども病院、それにサッターこども病院で「ターナー女性患者家族教育デイ」と呼ばれるイベントを組織し、プロモートしてきました。


 私は約4年間、TSSUSの理事会で女性理事を務め、協会の内部の仕組みを学びました。私はTSSUSのカリフォルニア・グループ・リーダーおよびTSSUS理事会で多くを学びました。それに多くの素晴らしいお医者さんたちとも出会ってきました。スタンフォードこども病院のロン・ローゼンフェルド先生、ロサンゼルスこども病院のミッチェル・ゲフナー先生、バレーこども病院のネディム・チャカン先生などがいます。これまでの数年間で、ロン先生、ミッチ先生、ネディム先生を,ターナー女性の尊敬すべき友人として数えていることを誇りに思っています。私はこれからも彼ら彼女たちの友情を大切にしていきたいです。


 私には18歳の養子縁組のアンドリューという息子がいます。息子は2歳の頃に自閉症と診断されました。私はいつも私の人生を「ターナーから自閉症へ」と言ってきました。彼は私の人生の光であり、月まで彼を愛しています。彼はその診断からこれまでたくさんの進歩を遂げ、毎日私を驚かせ続けています。彼は今度の6月にアルミホ高校を卒業しますが、これ以上誇りに思うことはありません。彼はこれまでのすべての段階で私を驚かせてくれ、それは今も続いています。


私の言葉


「ターナー症候群を患う中で一番難しいのは、普通に見えることで、人々が理解してくれないこと。」


 私はターナー女性のコミュニティの一員であり、本当に恵まれています。




 


「バタフライ・シスターズのきずな」

レニーさんの物語





 私は2,000〜4,000人に1人の存在です。私は、生まれた、そして今も生きているターナー症候群(TS)の女の子の赤ちゃんの2%に属しています。私のターナーの物語は、私が診断される前から始まります。高校1年生の生物の教科書には、ターナー症候群に関するセクションがありました。それはターナー症候群が女性にだけ影響する体の状態で、彼女たちはX染色体の一部または全部が欠落していると説明していました。そこにはいくつかの特徴がリストされていました。「背が低い」。それは私のことのように聞こえました。「二次性徴の発達の不足」。それも私のことのように聞こえました。「知的障害」。それは私のことのようには聞こえませんでした。私は学校でいつも良い成績を取っていました。それが自己診断を妨げた誤情報の一片でした。


 次の年(1987-1988年)、母は私に、まだ思春期を迎えていないことについて医者に相談するよう説得しました。お医者さんたちは染色体核型のために血液をとりました。私にはターナー症候群があることがわかりましたが、いくつかの疑問が残りました。私は更に採血を受けました。医師たちによって、私が卵巣がんにつながる可能性のあるターナー症候群の希少な形態の1つを持っていることを知りました。私は夏休みに卵巣を摘出しました。彼らは卵巣がんを見つけました。ですが、幸い、それは前がん性のものでした。


 しばらくの間、その診断はショックでした。自分は何かが違うことを知るだけで十分に難しかったです。それからはターナー症候群と関連する腎臓や甲状腺の問題がないかどうかを確認するための検査もありました。今、もっと困難を感じているのは不妊症です。大学では、不妊症についてもっと学び、心理学の論文を書きました。


 私はミネソタ州のツインシティの郊外、チャスカで育ちました。父の転勤で、1996年にネブラスカに引っ越しました。そこでターナー症候群協会に関わるようになったのです。それは素晴らしい経験でした。アメリカ・ターナー症候群協会(TSSUS)の大会に参加する機会がありました。TSSUSの大会で、ターナー症候群と関係することがよくある心臓の大動脈弁二尖弁障害が私にもあること、そしてそれについても医療でフォローされていることを知りました。さらに私は、Facebookの複数のターナー症候群グループのメンバーでもあります。こういった経験から私は多くを学び、「バタフライ・シスターズ」のきずなを楽しんでいます。


 当事者のみなさんも、ターナー女性である私たちの物語の中に、自分と同じところ、そして違うところを見つけていらっしゃると思います。私たちの中には出生時や胎内で診断され、成長ホルモンの恩恵を受けた幸運な人もいます。私のような人も含め、10代の頃に診断された人もいます。大人になってから診断された人もいます。


 後に診断されたことには良い面と悪い面があります。良い面の一つは、学業や社会的な面での困難の言い訳にはならなかったことです。私はただがんばって乗り越えなければなりませんでした。私が背が低いことで経験したいじめは、すべての子どもが経験するいじめでした。数学の特定の分野での難しさは、それを克服するためにはたくさんの練習が必要でした。誰にでも困難なことはあります。これが私の困難でした。


 診断が遅れる悪い面の一つとしては、成長ホルモン治療が遅れるということもあります。注射が嫌いだとしてもです。それに、ターナー症候群についての知識を得る遅れと「バタフライ・シスターズ」とつながる遅れも意味します。私はいつも考えています。もしもっと若い頃にターナーの女の子たちと出会うことができていたら、どれほど違っただろうか。私はアメリカターナー症候群協会国際大会で若い女の子たちを見て、彼女たちの作り上げている自信と友情を楽しんでいます。


 私はフランス語の学士号とスペイン語の副専攻を持って卒業しました。私は教育の手話通訳として働いてきました。私は耳の不自由な人と一緒に卒業し、放課後に彼女の通訳からさらに手話を学ぶ幸運にも恵まれました。私はかなり内向的だったので、クラスメートともっとおしゃべりする素晴らしい機会が持てていればと思っています。私はネブラスカ州で通訳をしていたとき、教育通訳者のための遠隔学習プログラムに参加し、教育通訳の免許を取得することができました。2013年3月には法学の学士号を最優秀で取得することもできました。























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