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NIPTでモザイク型47,XXYと診断されて


モザイク型クラインフェルター症候群の男の子の赤ちゃんとお母さん


 2017年5月8日、私はこの日を決して忘れない。その日は、私たちがもう二度と会うことのない赤ちゃんの出産予定日だった。そしてその同じ日に、私は子供を妊娠していることを知ったのだ。私たち夫婦は2016年のクリスマスから子供を授かろうと努力していた。だから、これからパパになる夫にどう話そうかと考えてわくわくした。その夜、夫が帰宅するのを待って、妊娠検査キットの2本線を見せた。彼は驚いていた。少し前に子どもを失ったばかりだったから、ふたりとも怖かった。でも最高の気分! 翌日、私は職場の従業員用クリニックで妊娠を確認してから、かかりつけの産婦人科に電話して、予約を取ろうとした。残念ながら妊娠6週目までは診られないと担当医が言った。私はまだ3週目くらいだったのだ。予約した初診日の前の週末、私たちは友人の結婚式のためにシャーロットまで出かけた。その夜、ポツポツと出血が始まった。私は泣きながらバスルームに座り込んだことを覚えている。だめ、だめ、止まって。まただなんて! でも次の朝にはおさまっていた。本当に嬉しかった。


 1回目の受診日。病院に行くと、超音波検査を受けたいですかと尋ねられた。前回の流産のとき、私は妊娠12週目までに超音波検査を5回受けていた。だから今回はいったん断わり、次の受診日まで待ってほしいと頼んだ。医師は了解し、次に、体にいい食べ物や飲み物、ビタミン類などの説明を始めた。それから、私の年齢が35歳だったので、今度の受診日に新型出生前検査(NIPT)を受けたいですかと訊いてきた。実は、これに何と答えるべきか、NIPTとは何なのかが私にはわかっていなかった。看護師が「あら、それはただトリソミー18やターナー症候群なんかをチェックする検査ですよ」と言ってパンフレットをくれた。夫と相談することにして、次の予約を11週目に入れた。


 妊娠11週目の受診日。夫が一緒に来てくれた。女性の医師が私を診察し、診察台のかたわらから超音波をあてた。医師は、とてもよく映っていますと言った。私は画面に目をやることができずにいた。前回の妊娠のときみたいに、動いていない心臓を目にするのが怖かったのだ。夫が私の手をぎゅっと握った。すると医師がこんな風に言った。「いいですね!!! 赤ちゃんが見えました。順調に育っています。心拍がしっかりして、豆のさやが踊っているみたい!」 そしてまたNIPTの話。彼女は、この検査は妊娠12週目以降はできないので、もし受けたいなら今やらないといけない、支払いはあなたの医療保険で大丈夫だと言った。じゃあ、お願いしますと返事をして、採血された。結果が出るまでに2週間くらいかかると言われ、私は診察室を出て仕事に向かう。


 採血の日から結果を知らされるまでの間に、地元の病院(ミッション系の施設)が、今後は分娩出産病棟を廃止するという決定をした。そのミッション系病院の女性部門からは、私が5年ほどかかっていたところを含め、たくさんの産婦人科がなくなることになった。


 仕事中に、いつもの産婦人科から電話があった。相手はそれまで診察を受けたことも話したこともない医師だった。その人が、あなたは今、座れる場所にいますか、と言ったので、私は外で電話を受けた。仕事はデスクでしていたけれど、深刻な話のようだったので屋外に走り出たのだ。私は妊娠13週目だった。実を言えば、赤ちゃんの性別を伝えるために電話をくれたのかと思った(それを知りたくて2週間待っていたのだから)。


こんな言葉が聞こえてきた。「落ち着いて聞いてくださいね。先日の検査によると、あなたの赤ちゃんはX染色体2本とY染色体1本を持っています」。私は「え、そうですか」と言った。私にはその意味がわからず、言うべき言葉が見つからなかったのだ。

 彼女はさらに、遺伝カウンセラーの予約を取ってくださいと言った。そして、何か尋ねたいことがあるかもしれないけれど、それは完全に自分の職務外のことなので、今は何も答えられないと。なるほど。いいでしょう。もし彼女の話を理解できていたら、私は怒ってもよかったのだと思う。私の子どもの人生にまつわる大事な話を、電話で、しかもこんなにひどい伝え方で聞かせるなんて。


彼女は続けて言った。「それで、もし男の子なら心配なことがあります。でももし女の子なら、検査結果が間違っています。ですから、どうか今はまだ落ち着いて」。わかりました。それで、私は(この時点では)まだ赤ちゃんの性別を教えてもらっていない。いったいどうすれば落ち着いていられるっていうの? 何が起きているかすらわからないというのに!

 午後の残り時間、私は仕事をしながら、あまり人と話さず、コンピューターに向かってXXYのことをググってみた。今思えば、そんなことしなければよかった。最初に出てきたのは1940年代の古い白黒写真だった。乳房とマイクロペニスを持つ、やせ細った思春期の男の子たちが背中を丸めて写っていた。その画像は今に至るまで頭にこびりついていて、思い出すと震えてくる。この日は役に立つ情報はまったく見つからず、こんな写真ばかりだった。


 車で帰宅する途中、泣けて仕方がなかった。音楽はかけず、窓を閉め切って、家に着くまでひたすら泣いた(幸いにも、私は職場から8分くらいのところに住んでいる)。夫に話さなければならなかった。彼は私より数分先に帰っていた。彼の顔を見ると、また泣けてきた。夫は明らかに、何が起きているかわからないようだった。私は彼に電話やメールで伝えることはしたくなかった。だから控えていたのだ(そう、あの産婦人科医のようなことは、したくなかった)。私はどうにか言葉を絞り出した。彼はただ私をハグして、きっと大丈夫だと言った。その瞬間、私にもそう思えた。夫が平気なら私だってそう。一緒に乗り越えていける。


 そのあと私はネットで、少しでも何かが見つからないかと探した。でもやはり時代遅れのごみのような情報ばかりで、私の妊娠ホルモンが制御不能になりそうだった。その夜は自己嫌悪にかられたり、「私が何かいけないことをした? どうして私が?!?」と思ったりした。6ヶ月前に流産していたので、今度の赤ちゃんはどうしても欲しかった! 私は侵襲的な検査は受けないと決めた。そして赤ちゃんを安全に保つために、できることは何でもすることにした。


 産婦人科医から、遺伝カウンセラーの予約をとるように言われていたので、指示通りにした。ただ、心の準備ができていなかったので、予約は数週間先にしてもらう。夫は一緒に来られず、義父(母の再婚相手)が130キロも運転して連れて行ってくれた。私たちは早めに到着したけれど、すぐに受け付けてもらえた。私はまず遺伝カウンセラーの女性と面談した。ふたりでXXY/クラインフェルター症候群とは何かについて話し、それから私と夫の家系について100問(に感じられるほどたくさん)の質問をされた。カウンセラーは、それがどういう風にして起きるかを説明した。精子が卵子に入り、細胞が分裂して、DNAがどうこうという、よくある話。彼女はプリントアウトした資料の束(私がネットで見たのとまったく同じもの)を渡してくれた。うーん。心に残るものは何もなかった。私の子どもに起きるであろう不具合の「あれこれ」のリストだった。でも面談の後半では、赤ちゃんを見ることができた!! 男の子だ!(ようやく確認)。息子はところかまわず動き回っていた。あらゆる面でパーフェクトに見えた! 私は画面を見るのがとても怖かったけれど、彼は本当に完璧な男の子だった! その瞬間、それまで何に対しても、誰に対しても感じたことのない愛情がわいてきた。私は誇らしい気持ちで、この超音波画像を何枚も写真に撮って、義父に赤ちゃんを見てもらった! 帰宅した夫には、遺伝カウンセラーがいかに無知な様子だったかを話した。こんなのあり得る? あの人たち、学校に行き直した方がいいんじゃない、などと。でもまあ、超音波で息子が元気だと確認できたので幸せだった。



モザイク型クラインフェルター症候群の男の子の赤ちゃん

 次の産婦人科受診日。また超音波検査をして、初めて会う産婦人科医が登場。私は、カウンセラーから得るものはなかったということと、あそこは随分遠いので、もう二度と行きたくないということを話した。医師は了解して、これからはこの町を離れなくていい、カウンセラーのところにはもう行かなくてもいいと言ってくれた。


 その次の産婦人科受診日。ねえ、何があったと思う? 前回会った医師はまたいなくなっていて、さらに別の医師が出てきた。この医師は、この前の超音波では赤ちゃんの心臓の部屋がきれいに見えなかったので、できればもう一度、アッシュビルのカウンセラーのところに行ってほしいと言った。えーっ。先日の医師はもう行かなくていいと言ったのですが、と尋ねてみたけれど、いえ、行ってください、と。


 オーケー。というわけで、またカウンセラーのところへ。今回は夫が同行してくれる。お腹の中の息子は、機械に心臓を撮らせてくれなかった。それでも、軽く体を動かしたりオレンジジュースを飲んだりしていたら、息子が動き、心臓が素晴らしくよく見えた。なのに、妊娠30週目のとき、私はまたここに来て、息子の成長を確認しなければならなかった。私は妊娠うつだったに違いないけれど、とにかくそのことで頭にきていた。どうして通い慣れた近所の病院で超音波検査を受けられなかったのか、いまだにわからない。


妊娠するということは、それ自体がとてもハードなタスクだ。だって、お腹がすいて、疲れて、診察の予約をとって、いろんな人から気分はどう? 赤ちゃん元気? それ食べちゃだめ、こんなもの持ち上げないで、そんなの使ってお掃除しちゃだめ、ほかに買ってきて欲しいものない? などと言われ続けるのだから。そしてまだ続きがある。染色体/遺伝性疾患という診断が加わると、事態がまた変わるのだ。

 妊娠中はずっと、フルタイムの仕事を2つしていたようなものだ。その1つは、ウェイトレスとしてテーブルを準備している私のところに、赤ちゃんのことを逐一知りたがる、なじみのお客さんたちがやって来るような感じ。私は明るく前向きな人格を演じつつ、何もかも順調です!と繰り返す。47,XXYは私の診断ではなく息子のことだ。だから息子には、準備ができて、誰に知ってほしいかがわかったら、その人たちに自分で話してほしい。夫と私はこのやり方でいくことに決めたので、私は誰にも言わなかった。私はたくさんの時間を産婦人科医と過ごし、超音波検査を何度も受けた。検査では、いつも息子の心臓の4つの部屋全部を捉えるのが大変だった。彼の心臓は繊細なのだ。彼は本当に頑固で、いい画像を撮られることを拒んだ。そしてついに妊娠30週目になって、私はもうカウンセラーのところに行かなくていいと放免された。私たちはお祝いにレッド・ロブスターで食事した(私たちはめったに外食しないの!)


 今にして思えば、私は妊娠を怖がるのでなく、楽しんでいたら良かったと思う。実際に気分は最高だった! つわりはまったくなかったし、体重は12 kgしか増えなかった。一番大変だったのは、冬用のブーツを履いたり脱いだりすることくらい。こんなに楽な妊娠で幸運だった。まあ、病院でつっつき回されたりしなかったらもっと良かったけれど。


 初めてママになる。それは私の人生の中で最も素晴らしく、美しく、特別で、大切な日だった。


 週1回の産婦人科検診に出かけた。妊娠38週目。血圧が高かった(診察の予約時間に夫が遅れてきたので頭にきてた。だからこれは夫のせい。もちろん冗談)。赤ちゃんの様子を知るために、私はモニターにつながれた。30分ほどたってから血圧の再チェックを受ける。まだ高い。尿蛋白が調べられたけれど、蛋白質は出なかった。それでも医師たちは、血圧が上がり続ける私を分娩施設に移すことにした。私は妊娠高血圧腎症と診断された。私の町にはもう分娩施設がなかったので、車でアッシュビルまで行かなければならなかった。そしてまずバルーンを使った誘発が始まった。子宮口が4 cmになり、さらに進めるためにピトシンを投与していいかと医師から尋ねられた。私は少し待ってほしいと頼み、2時間後にピトシンに同意した。45分ほど経ってから破水した。破水から24分後、私は可愛い我が子と対面した。完全に自然分娩。硬膜外麻酔をお願いしていたのに間に合わなかったのだ。


 息子が私の胸の上に置かれた。彼は泣かずにバブバブ言っていた。すごく可愛い声。すると不意に私を見上げた。私も見つめ返す。なんてパーフェクトな男の子! 医師たちが息子の体重を測り、お決まりのいろいろな医療処置をして、それからまた彼を手渡してくれた。問題なし、心配なし。正直に言うと、妊娠期間中はほぼずっと心配しながら過ごしていた。でも今は何の心配もなかった。息子が何かの状態と診断されるかもしれないという考えは、微塵も浮かばなかった。医師たちは息子の血色の良さを口々にほめ、可愛い赤ちゃんだとフロア中で話題になっていると言った。


 私はひどく具合が悪かったので、その後のことはあまり覚えていない。でも4時間くらいして、その夜の当直の小児科医が、息子の様子を見に部屋に入ってきた。彼は息子を見るなり、こう言った。「おー、可愛い男の子だ。君のご両親は検査を受けたんだよ。きっとおふたりとも心配されたはずだ。でも君は、そのまんまで大丈夫だよ」。このとき私は、息子が47,XXYかもしれないということを思い出した。でもそれはその瞬間だけのことで、すぐに忘れた。私は本当にうっとりしていたから。息子はその夜、とてもいい子だった。眠って、抱っこさせてくれて、彼に会いにきた人たちを歓迎した。むずかったりはまったくしなかったので、赤ちゃんってもっと大変なんじゃないの? と思ったりした。私はパーフェクトな授かり物をいただいたうえに、その子がまたいい子なの! 看護師さんたちにも大人気!! おっぱいを吸うのも完璧。ただ、私の体が彼の栄養になるものをうまく作れなかった。私は4日間の入院中の3日目に、赤ちゃんに調整ミルクをあげてほしいとお願いし、そうさせてもらった。看護師さんが9 ccだけあげてくださいと言った。息子はとてもお腹をすかせていたので、早速ミルクをあげた。彼がごくごくと60 ccも飲むのを私は見ていた。母親は赤ちゃんが何を必要としているかがわかるものなのだ。私は4日目の午後2時頃に退院になった。赤ちゃんと一緒に家に帰るのが嬉しくてたまらなかった。


 病院にいた間ずっと、夫と私は、「もしXXYだったら」という話は一度もしなかった。言わないようにしていたというのが本当のところ。私たちは、私たちの愛情を必要とする赤ちゃんの親になったのだ。だから、ひたすらそれを彼に与えていた。すると息子は、今まで存在すら知らなかった感情を私たちの心に芽生えさせてくれた。


 この病院で息子の検査をして、診断を確認することもできるということに気づかなかったので、1ヶ月検診まで待ってから、小児科医に臨床検査をオーダーしてもらった。病院側も新生児スクリーニングのための血液検査をきちんとできていなかった。だから私たちは息子のかかとを針でつついて血液を採り、XXYの診断検査に出すことになった。このときまでに私は、クラインフェルター症候群のことを過剰なまでに勉強していた。新生児と一緒に過ごしていると自由時間がたっぷりできるので、フェイスブックやフォーラムを見て回ったのだ。たまたま見つけたフェイスブックの古い投稿に、100個の細胞を調べてもらわないと正確な診断とは言えないと書いてあった。もうすっかりママらしさを発揮していた私は、100個の細胞を検査してもらえるようにお願いした。再検査はもう受けさせたくない。1回でちゃんと終わるべきなの!!


 2ヶ月目の新生児検診。結果が届いている。息子はモザイク型の46,XY/47,XXYだった。小児科医はそのことをとても丁寧に伝えてくれた。その態度は、これまでで一番好ましく感じられた。私たちにポジティブな親でいようと促すみたいに、背中を軽く叩き、モザイクガラスにするみたいに優しく扱ってくれた。それはなおさら特別なことだった。彼女は私に、フォーカス財団の情報のプリントアウトをくれた。彼女はきちんと仕事をした。その日、私たちが来るまでに勉強して準備していたことがわかった。そして、そのとき彼女が言った言葉は、それからいつも私とともにある。


「この診断がお子さんのすべてを決めるわけではありません。私が見たところ、お子さんはただの赤ちゃん、ごく普通の赤ちゃんですよ」

 息子は今のところ遅れることなく、むしろ早めに、いくつかの節目を過ぎている。彼は病院から家に帰り着く前に頭を持ち上げた。生後5ヶ月までに補助なしで座れるようになった。6ヶ月でハイハイした。7ヶ月で伝い歩きをするようになり、11ヶ月で歩き出した。生後9週目から、夜中に起きることなく眠る。先日は1歳の誕生日のお祝いをした。彼はケーキは好きじゃない。だから私たちはオリーブを食べた。息子は200種類以上の食べ物を食べる。音楽と車が好きで、ボールを投げたり蹴ったりすることも好き。彼は可愛くて、人見知りをしない。出会った人、誰にでも笑いかける。この子はなんてお行儀がいいの、一緒にいるとなんて楽しい子なの、とお褒めの言葉をもらう。牛乳はなかなか飲んでくれないので、私たちは代替ミルクとアーモンドミルクを使っている。息子は蓋つきカップも断固として嫌がり、蓋なしのカップをほしがる。


 私は息子が誇らしくてたまらない。彼が成長したり学んだりするのを見てわくわくしている。


  それがこの男の子のママであるということなのだ。


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