母に、「あれって何?」と聞くと、母は涙を浮かべ泣き始めました…。
あれは小学校5年生、テレビで生理用品のコマーシャルを見ていた時です。ほとんどの10歳の子と同じように、私も生理用品のことなんて聞いたことがありませんでした。でも私の場合、母に、あれって何?と聞くと、母は涙を浮かべ泣き始めたのです。
皆さんは自分の娘に、その子が生理用品を必要とすることがないだろうって、どんな風に言いますか?この子には生理がない、子どもも持てない、そしてこれは、この子が他の女の子と何か違っている、ほんの一部に過ぎないんだということを。
外から見れば、ピッツバーグの郊外でテレビを見ている小さな子どもに、他の女の子と何かが違うところなんてありません。私は昔から女の子ぽかったし、ハロウィンにはキラキラのピンク色のドレスに、フェルト生地のプードルスカートをはいて、かわいいお化粧をすることで頭がいっぱいでした。
外見からは、私がアンドロゲン不応症、つまりAISと呼ばれる稀な体を持っているということは分かりません。私は「普通だったら」男の子の組み合わせのXY染色体でも、女性に生まれたのです。AISでは、XYの胎児は男の子の性器を形成するように伝える重要なホルモンに身体が反応しません。生命の一番最初の段階から、私の体はその信号を受け取れず、女性器を持った女の子に成長したのです。でも、私の体の中のものは普通の女の子とは違いました。
両親がこのことを知ったのは私が6歳のときでした。シャワーを浴びているとき、足の付け根のしこりが痛み、私は叫び声をあげました。両親も医師もこれはヘルニアに違いないと私を病院に連れて行きました。でも、外科医が手術したとき(ヘルニアはX線には映りにくく、手術で固定する必要があるのです)、しこりの後ろに腸のねじれはありませんでした。足の付根にあったのは性腺だったのです。腹部の反対側にももうひとつ性腺が見つかりました。そして私には、膣の上部や子宮頚部、子宮、そして卵管がありませんでした。


私はこの名前は嫌いです。まるで私が全然女じゃないように聞こえるからです。
1990年代、その頃はまだAISは「精巣性女性化症」と呼ばれていました。私はこの名前は嫌いです。まるで私が男の成りそこないで、全然女じゃないように聞こえるからです。1950年代以来、もし女性がこの診断を知ったら、気が狂うかレズビアンになると信じられていました。医師は愕然としている私の両親に、ちゃんと育つし適応もしていく、でもXY染色体や精巣を持っていることを知らせるべきではないと言いました。けれども両親は私に少しずつ話をしていく決意をしていました。
両親は私に解剖学の本を見せ、子宮は女性の中にある巣箱で、その中で赤ちゃんが育つんだと話しました。私にはそれがない、でも赤ちゃんの里親になって、心の巣箱で赤ちゃんを育て、家族の一員にしていくことができると。生理についても教えてもらい、自分にはそれがないだろうということも知りました。でも、私が更に本当のことを知ったのは、16歳になってからでした。
この年、私の妹が学校から生物学の宿題を持って帰ってきました。クラス全員に研究項目が振り分けられていて、妹の担当がAISだったのです。「お母さん、お父さん。これって絶対お姉ちゃんのこと言ってるみたい」。妹はある日の夕食時にそう言いました。「それにサポートグループのウェブサイトにお母さんの名前の人が出てる…」。
両親は顔を見合わせました。ふたりからすれば、私が18歳になるまで待ちたいと思っていたのです。でももう後戻りはできなくなりました。両親は、私と妹弟(私より15ヶ月若い双子)に、すべてを話をしたのです。父は最後に「お前が私たちの娘であることにかわりないよ」と言ってくれましたが、私は、なんで私が女の子じゃないってことになるの?と思うばかりでした。たしか私がその時に言ったのは、「他には誰が知ってるの?」ということだったと思います。
こういう気持ちは思春期という永遠の葛藤から来たものでした。
母が私のような女の子の会に行っていたとは知っていましたが、両親が他に何も言わなかったのは、私には子宮が欠けているだけ、ただそれだけのことだったからだと私は思っていました。でも、そのとき私はもっといろいろあるんだということが分かりました。AISというラベリングも。私の身体は症候群だったのです。そのことはもうみんな知っているようでした。医者も祖母も、おじさんもいとこも。
私はショックで怒りが湧いてきました。両親、それに私自身の身体に裏切られたように感じたのです。今から振り返ると分かるのですが、こういう気持ちは、一体自分の何が悪いのかという恐怖、それに誰か別の人なら自分にベストのことを決めてくれたかもしれないという、思春期という永遠の葛藤から来たものでした。それはまだ未熟な子どもっぽい考えでしたが、私はひたすら自分の不安を何か別のものに向かわせるばかりで、その時はまだ十分には成熟していなかったのです。食卓から走り去って、私は学校の練習チーム用のお気に入りのチアガールの衣装を着ました。プリーツスカートに、白と黒と赤のベスト。シルバーのペレットが入った白のビニール製のカウボーイシューズ・・・。それにたくさんのポンポン。でも、いつしか、ホンダオデッセイミニバンに乗って練習に行く時には、私はまたありきたりのチアガールに戻れていました。


友達については求めても親密になりきれませんでした。
けれども、事はそんなに単純ではありません。高校生活は容赦のないものになりました。私はまだ自分自身について学んでいたことを話すことばを持ち得ていませんでした。私はひどい不眠と、とてつもなく大きな不安にさいなまれ、時に鬱にもなりました。私は取り憑かれたように学校に行き、ずっと勉強ばかりしていました。ピアノを弾いて、クラシックソナタに自分を溶けこませ、私より前にそれを弾いた何千もの人々を想像し、それを慰めにしていました。
だけど友達については求めても親密になりきれませんでした。仲が良かった3人の女の子といても、その関係はぎこちなく一方的なものになっていました。
男性との関係もどうすればいいかよく分かりませんでした。一度ある男性と付き合ったのですが、彼は彼の友だちに、あの子のって指先しか入らないんだよと言っていたのです。噂は学校中に流れ、ある女の子はずけずけと私に「ケイティ、あなたのこと聞いたわ。でも私ができるのは指先分だけだけどね」と言ってもきました。私の人生の中でもっとも屈辱的な出来事のひとつです。