現代の奇人変人ショー:DSD(性分化疾患/インターセックスの体の状態)のある男性とLGBTムーブメント
- nexdsdJAPAN
- 8月1日
- 読了時間: 5分

御覧の皆様に
現在欧米では、DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患:インターセックスの体の状態)を持つ人びとが、自分自身の顔を公表し、自分自身の物語・声を発信されています。
もちろん、誰でも自分の顔を公表するべきだ、話をするべきだということになってはいけません。ですが、ではなぜ、欧米のDSDsを持つ人びとや家族の皆さんは積極的に自分自身の実際の顔と話を公表するようになってるのでしょう?
実はそこには複雑な事情があります。

このポートレイトは、あるDSDを持つ男性、ジムさんが、自分の体の状態についてのエッセイとともに、LGBTQ系のネットメディアに載せてもらうようにと送った、ジムさん自身と、同じDSDsのひとつであるAIS(アンドロゲン不応症)を持つ女性イーデンさんの写真です。(仲の良いただの男性と女性です)。
ですが、このふたりの「現実の人」のポートレイトは、そのサイトでは使われることがありませんでした。一体何が起きたのでしょう?
DSDsを持つ人びとへのステレオタイプなイメージ・物語は、一見政治的な正しさを装いながらも、実は現代でも19世紀の大昔と全く変わらないことを、ジムさんの体験は示しています。悪いのは当事者ではありません。いつも自分が見たいものだけを見る「観客」の問題なのです。
(ジムさんやイーデンさんのような、欧米のDSDsを持つ活動家の人々が、なぜ「Disorders of sex development(性分化疾患)」という用語を使わず、「インターセックス」という用語を使う場合があるのか?これにはいくつかの理由がありますが、ひとつは、本人の同意のない手術の禁止を求めるため(女性か男性かの性別判定の禁止ではありません)なのですが,さらには,「Disorders of sex development」という用語を使うと、欧米のLGBTQ等性的マイノリティのみなさんが一切耳を傾けてくれないからという理由もあります。日本では考えられないような話ですが、それぞれの国の事情というものもあるのです)。
私たちは「性のグラデーション」でも「男女の境界の無さ」でもありません。むしろそのようなご意見は、私たちの女性・男性としての尊厳を深く傷つけるものです。
DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)は、「女性にもいろいろな体がある、男性にもいろいろな体がある」ということです。
DSDsに対する「男でも女でもない」などの偏見は,新型出生前検査(NIPT)での中絶選択のリスクにも繋がります。
どうか、お間違いのないようにお願い致します。
詳しくは「DSDsとは何ですか?」のページをご覧ください。
すり替えられた写真
Eric Rofesの『私は自ら死を選んだ人々を想う:レズビアン・ゲイと自殺』を読んだのは、まだ大学に入ったばかりの頃だった。本のタイトルはジョージ王5世(第一次世界大戦前のイギリスの王)が、友人に同性愛者がいると話した後に言った言葉から取られている。
当時、1994年と言えば、クィア(訳者注:欧米でのLGBT等性的マイノリティの人々を指す用語)の人々はまだ周縁の存在だった。その時僕は17歳。同じような話をいくつか耳にはしていた。
それから20年。レズビアンやゲイの人々が、マスコミや映画、文学の世界で、正確な自分自身のポートレイトを示すことで不可視化を拒否し、それによって自分たち自身の姿の可視化と解放運動の機会をもたらしたことは、皆が知ってるところだろう。
2014年5月24日。僕が書いた記事『社会の頑なさと自然の解答』が、ネットサイトに発表された。モンタナでの反差別条例について書いた記事だ。
そのサイトの編集者が僕の紹介とタイトルを短くしたことは理解している。でも、写真をすり替えたことについては、政治的にも、その編集者のプロとしてのプライド的にも、人道的にも、受け入れがたいことだった。
元々僕たちがこのサイトに提供した写真は、僕自身とイーデン(DSDsを持つ現実の人々)の姿を写したものだった。しかし、この写真は無視されたのだ。


奇人変人ショーの「観客」の問題
この三流の編集者は明らかに、DSDsを持つ人々をミンストレル(道化師・奇人変人)ショーの登場人物と見なすことを望んだのだろう。彼は知っていたのだ。この世には2種類の人間がいる。ショーの観客とエンターテナー。そして、正しいのはいつだって観客の方なのだという通念を。

このサイトで使われた写真が意味するところは、意図的な皮肉や社会的批評でもない。ただの貧弱な発想だ。
DSDsを持つ「現実の人々」(様々な体の性の構造で生まれた人々)は、誰かのマンガの男女の境界的存在のようなイメージでも、板挟みの天使でも、見世物でも空想の産物でもこの世の悲劇でもない。「男でも女でもない性の理想」に耽溺されるために生きているのでもない。
DSDsを持つ人々の多くは、現実のつらい環境の中を生きていて、あなたが想像するような神話的イメージの存在では全くない。
男と女を半分ずつくっつけたようなこのイメージアートは、容易にインターセックスの体の状態を持つ人々に連想させる。結局こんな風に扱われるのだという、死よりもつらい運命をイメージさせるのだ。
欲望の空想ではなく、現実の人間を。

僕は現在のこの日々を生きている。こういうイメージでDSDsを持つ人々を表すのは、人々の刺激と混乱を招き、ただデマを広げていくだけになってしまう。こういったことを続けていくならば、第一次世界大戦中のゲイやレズビアンの人々と全く同じく、様々な体の性の特徴を持って生まれた人々を不可視化させ、現実ではない空想ばかりを広げ続けるだけになるだろう。
可視化はもたらされるものではない。必要とされているものである。そして、勝ち取るべきものなのだ。
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