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親もひとりの人間なのだということに気がつくまで。―アンドロゲン不応症(AIS)女性の手記

22 時間前
読了時間: 16分




御覧の皆様へ


私たちは「性のグラデーション」でも「男女の境界の無さ」でもありません。むしろそのようなご意見は、私たちの女性・男性としての尊厳を深く傷つけるものです。

​

アンドロゲン不応症をはじめとするDSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)は、「女性にもいろいろな体がある、男性にもいろいろな体がある」ということです。


どうか、お間違いのないようにお願い致します。


詳しくは「DSDsとは何ですか?」のページをご覧ください。





 


 ここでご紹介するのは、女性のDSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)のひとつ、完全型のアンドロゲン不応症(AIS)女性当事者による手記です。


 ご自身の体験だけでなく、葛藤や不安を抱えながら育ててくれた両親の視点や、家族が歩んできた道のりが温かく綴られています。


 「他の人に話してはいけない」という孤立感や沈黙の苦しさを乗り越え、真実と向き合いながら絆を再構築してきたストーリーは、同じ悩みを抱える当事者やご家族に大きな勇気と寄り添いを与えてくれます。


 家族へのサポートの大切さや、一人で抱え込まなくてよいという温かいメッセージが込められた記事です。






 私自身がDSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)を持って生まれた経験については、これまでにもたくさん書いてきました。でも、これは私だけの物語ではなく、私の家族、特に両親にとっても非常に大きな影響を与えた出来事でした。


 両親の物語を書くにあたり、自分自身の声や感情と切り離すのは難しかったのですが、彼らが経験したことの一部を少しでも捉えられていれば幸いです。これを聞いた私の母と妹は少し泣いてしまいました。とはいえ、その中には「嬉し泣き」も含まれていました。嬉し泣きは最高の涙であり、私にいつも『赤毛のアン』を思い起こさせてくれます。




うれしい涙


 私は現在、ロンドン郊外の小さな町に住んでいます。毎年、地元の家族がとても大きな庭で小さなフェスティバルを主催しています。誰もが一番カラフルなヒッピーの服で着飾り、そのエリアはフラワーチルドレンや年配のロッカーたちでいっぱいになり、地元のバンドに合わせて踊ったりお酒を飲んだりします。村として認識されたがっているサリー州の半農半村の町で楽しめるものとしては、おそらくウッドストックに最も近いイベントです。


 昨年は、私の母、父、そして妹がみんなで遊びに来ました。70代半ばを過ぎているにもかかわらず、父は花柄のシャツにサイケデリックなバンダナを巻き、母は髪に花を飾り、顔にはキラキラしたグリッターペイントをしていました。私たちはみんなで踊り、笑い、プロセッコを飲みすぎて、すべてのバンドに声援を送りました。暗くなってきた頃、友人たちやきらめくイルミネーションの光に囲まれ、音楽に合わせて笑顔で手拍子をする両親の姿を見たのを覚えています。


 私は家族への強い愛を感じ、みんなでこうして一緒にいられることに深く感謝しました。そして、感情が高ぶってウルウルした目で妹の方を向き、ろれつの回らない声で「この瞬間を覚えておかなきゃね」と呟きました。暖かい夏の夜とお酒のせいで感傷的になっていたのかもしれません(間違いなく嬉しい涙もありました)。でも、このように幸福感を共有する瞬間こそが、すべての家族にとってとても大切なものなのです。そしてこれこそが、本当に困難な時期を通しても私たちが絆を保ち続けてこられた大きな理由なのだと思います。



人とは違う子ども



 私の両親は二人とも1960年代に青春時代を過ごしました。彼らが1960年代に対して抱いている思いは、私が1990年代に対して抱いている思いととてもよく似ています。それは彼らの黄金時代であり、私は彼らの思い出話をたくさん聞いて育ちました。母はザ・ビートルズのレコードを買いあさり、ツイストダンスを踊りすぎて靴を履き潰しました。父はバンドを組んでおり、サウスウェールズでそれなりに成功していて、トム・ジョーンズと一緒に歌ったことさえありました。父は自分のことをちょっとした「ビーチ・ボーイズ」気取りだと思っていて、母は冬の真っ直中に彼が波に乗ろうとするのを海岸で寒さに震えながら見ていたそうです。でも、1971年に結婚した当時、二人はまだとても若く無知で、生まれた家でそれぞれの親と同居していました。


 私は両親が結婚して1年余りが経った1972年に生まれました。母の分娩は長引いて困難を極め、最終的に私は吸引分娩で生まれました。頭が円錐形に尖ったエイリアンのような姿だったそうです。母はいつでもその原因を自分の「超小柄な21cmの足」のせいにしていました。足のサイズと骨盤の大きさが比例するという考えに医学的な根拠はあまりないかもしれませんが、担当の産科医は後に母のもとを訪れ、「二度とこんな苦しい思いはさせないからね」と告げたそうです。


 疲れ果ててはいたものの、母はその小さな円錐頭の赤ちゃんを愛おしく思いました。そして当時の一般的な過ごし方として、産科病棟で2週間ほど滞在することになりました。母は他の新米ママたちと体験談を交わしたり冗談を言い合ったりして、この時間を楽しんでいました。何か異変が起きているという最初の兆候は、理由も告げられずに突然個室へ移動させられたことでした。母はすべてのリネン類を「汚染物」とラベルの貼られたバッグに入れるよう指示され、看護師たちの対応に微妙な変化を感じ取ったのです。


 出産の疲労と精神的なもろさを抱えていた母は、突然ひとりきりの部屋に置かれたことで不安を募らせ、「何か恐ろしいことが起きているのではないか」という感覚に襲われました。陽気な性格で常に物事を前向きに捉えるタイプの父は母を安心させようと努めました。でも、退院が許可された後も母の心配は消えませんでした。特に、病院での再診の予約を入れられた新米ママが自分だけだったからです。


 助産師が自宅を訪問した際にも、母は何かを感じ取り、「何か悪いところがあるのですか?」「なぜまた病院の予約が入っているのですか?」と何度も尋ねました。でも明確な答えは得られず、「すべて定期的なものですから」と助言されただけでした。でも、その再診の場で医師が開口一番に発した言葉は、「また子どもを作るご予定はありますか?」というものでした。母は出産したばかりでそんなことは何も考えていないと伝えようとしましたが、医師は「それはこれから考えなければならないことかもしれませんね」と答えました。これにより母はパニックを深め、何か異常があるのか、自分たちに隠していることがあるのかと再び尋ねました。でも医師はその不安を一蹴し、代わりに小児科教授の診察予約を入れました。


 最近このことについて母と話した際、母が今でもこの経験に腹を立てており、「あの医者のことが大嫌いだった」と口にするほどでした。その医師は後に、私の学校に通う別の子どもの親であることが判明しました。母は彼を見かけるたびに、「自分が認識されているのではないか」「私に関するこの秘密の情報を取り知られているのではないか」と恐怖を感じていたそうです。


 数か月後、私たちは教授の診察を受けました。両親の記憶の中での教授は、親切で温かい男性でした。教授は、私が生まれたときにヘルニアが見つかったこと、そして調査の結果、私の染色体がXYであることが判明したと説明しました。両親には特定の病名や詳細な情報は与えられませんでしたが、教授は「この事実を本人に知らせてはならない」「他の人にも話してはならない」と説明しました。そして、緊急の処置が必要という兆候がない限り、私が2歳を過ぎてからヘルニアの手術を行うと告げられました。もう少し大きくなったら、なぜ私に子どもができないのか、なぜ生理がないのかを説明するための作り話を伝えること、そして将来的に子宮や卵巣の移植ができるようになるだろうという話もされました。両親は「同じような人は他にいるのか」と尋ねましたが、これは信じられないほど稀なケースであり、この地域に他の人がいる可能性は低いと告げられました。


 私にとって最初のクリスマスの直前、父がサッカーの試合観戦に出かけている間、母は一人で家にいました。私が泣き始め、母はあやそうとしましたが何も効果がなく、泣き声は悲鳴へと変わりました。父が帰宅すると、両親は私をすぐに救急外来へ連れて行き、私はそのまま緊急入院してヘルニアの手術を受けました。手術が終わったとき、病棟で私を担当していた看護師が「青いベビー服を着せておいてよかったわね」と言いました。急いで病院に向かい、生後3か月の赤ちゃんが緊急手術を受けた直後という状況も重なり、この発言によるショックで母は気を失ってしまいました。父が床に倒れる前に受け止めたため母が身体的なケガをすることはありませんでした。でも、精神的にも母は崩れ落ちていました。性分化疾患を持つ子どもを育てるという未知の世界へと急降下していく母を受け止めてくれる安全網も、利用できるサポートも存在しなかったのです。


 これは、他の新米ママたちと一緒に笑って冗談めかして話せるような経験ではありませんでした。夜泣きをするかとか、歯が生えてくるかといったレベルの話ではなかったのです。これは、親しい家族や友人に対してさえも秘密にしておかなければならないと告げられた事柄だったのです。医療従事者とのほぼすべての関わりが、両親の羞恥心と孤独感を増させるばかりでした。そして「この子に絶対に知られてはならない」と強く思い込ませる結果となったのです。私の将来の幸せは、両親の沈黙にかかっていました。



秘密と恥辱の日々



 その後数年間、私たちは教授の診察を受け続けました。母は、ただ親切にしてくれたという理由だけで教授に心から感謝し、彼の新しい孫に使ってもらうために私のベビーベッドを譲ったほどでした。両親のサポートの輪はあまりにも小さかったため、教授は彼らが心を開いて話せる数少ない人物の一人でした。そのため、教授が提供するアドバイスや情報に対して疑問を抱くこともなく、彼だけが自分たちを救ってくれる唯一の存在だと信じ切っていたのです。両親は教授のレジデントを紹介され、後に教授が退職した際にはそのレジデントが私の主治医を引き継ぎました。私の子ども時代を通じて、そして思春期に至るまで、彼が両親にとって唯一の情報源であり、安心の拠り所でした。


 最近、当時のことについて母と話した際、母は常に恐怖と不安の状態の中で暮らしていたと語ってくれました。私の行動や外見、ちょっとした癖に疑問を持ち、「これがこの子の将来にとって何を意味するのだろう」と悩み続けていたのです。母はよくゾンビのように歩き回っていたと振り返ります。親としての務めはこなしていても、気持ちは決してそこにはなかったのです。母は私が将来背が高くなるだろうと告げられていたため、まだ幼い子供であるにもかかわらず、周りの子よりも背が高いことを心配していました。母自身は157cmしかなく、父も170cm程度しかなかったにもかかわらず、私が193cmくらいになって妹を見下ろすようになる姿を想像して恐れていたのです。実際の現実はその中間に落ち着きました。私は確かに背が高い方ですが、175cmには届かず、妹でさえ父より背が高いほどです。


 また母は、学校の修学旅行で私が大声を出したことが原因と思われる喉の痛みのために、私を近所の開業医に連れて行ったときのエピソードも話してくれました。その医師は「おそらくこの子の持病に関係しているのでしょう、声変わりかもしれないですね」と言ったのです。完全型のアンドロゲン不応症である私の声は常に通常より高音寄りであったにもかかわらず、この発言は母を打ちのめしました。声が予期せず変わってしまうことへの恐怖からだけでなく、母がどう感じるか、どれほど孤独を感じているかに対する配慮が一切ない、その冷酷な発言に対してでした。次の病院の診察までは何ヶ月もあり、母がこの辛さを共有できる相手は父しかいませんでした。


 私が14歳のとき、ガン化する可能性のある卵巣を摘出する必要があるという、悲劇的で虚構の物語を告げられました。そして、このことを誰にも話す必要はないとも言われました。嘘と秘密主義は、私たちの家族生活のあらゆる領域に影響を及ぼす、ますます重苦しい沈黙となっていきました。私は自分の体に対して深い恥辱を感じ、それを言葉で表現する手段もなかったため、その感情は内側に向かい、自分の外見に対する嫌悪へと変わっていきました。私は自分の鼻の形や、若々しい額のシワ、そしてまつ毛が抜け落ちてしまうという恐怖に執着するようになりました。


 母の記憶によれば、私は頬の上に落ちた別のまつ毛を見つけて狂乱状態になり、その後開業医を受診してカウンセラーを紹介されたそうです。私の両親も同じ施設でセラピストのカウンセリングを受けました。しかし、私が真実を知らず、両親もセラピストに真実を話すことを恐れている状況で、会話療法に一体何の意味があったのでしょうか。私たちは自分たちの悩みを表面談的に議論することしかできませんでした。


 家族の外では、私は学校でも成績が良く、健全な友人関係を築いている、健康で適応力のある若者のように見えていました。表現力豊かで、普通の幸せな十代を演じることができていたのです。でも家庭内では、私は頻繁に精神的なパニックを起こしていました。「誰からも愛されないのではないか」という恐怖や、「自分が欠けていると感じるものを補うほど自分の外見が完璧ではない」という理由で泣き崩れました。自分の子どもが苦しんでいる姿を見ることの辛さや、それが両親に与えた影響を私が本当に理解できたのは、何年も経ってからのことでした。私がついに自分の診断に関する真実を告げられたとき、両親は私の怒りを受け止めるのと同時に、すべてを間違えてしまったという罪悪感と恥辱の意識を受け入れなければなりませんでした。



真実とともに前へ進む



 自分の診断についての真実を知らされた後、私はAISのサポートグループに連絡を取り、交流会に参加する手配をしました。両親も一緒に来てくれました。最初のうちは、彼らは私をサポートするために来ていると感じていたのだと思います。それは私にとっても非常に報われる体験でしたが、両親にとってはそれ以上に重要なことだったと思います。彼らは生まれて初めて、DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)を持つ子どもを持つ他の親たちと出会い、似たような経験や物語を共有することができたのです。同じような決断を下し、与えられたアドバイスにしがみつき、何も疑問を持たずにただ指導を懇願していた他の親たちの間に、両親は支援と理解を見出しました。


 両親は部屋を見回し、私のような他の若者たちの姿を目にしました。そこには多くの傷や痛みがあったものの、私たちは壊れてはいませんでした。誰も恥じる必要などないこと、そして私たちは皆、完璧ではないけれど完璧な人間であり、自分自身の声を見つけ始めているのだということを、両親は理解することができたのです。


 家族の関係が単純であることはめったにありません。私たちは関係を再構築するための第一歩を踏み出すことができましたが、それでもお互いにとって非常に痛みを伴う会話を重ねましたし、その傷跡は今でも残っています。でも、私たちは現在、お互いの人生に深く関わっています。家族としては賑やかで激しく喧嘩もしますが、そこにはたくさんの愛と温かさ、そして楽しさがあります。


 私の人生は今、素晴らしいものです。大好きな仕事があり、結婚して、養子縁組を通じて最高の息子を迎えました。両親が長年にわたって真実を隠し続けてきた過ちを認識することはできますが、同時に、最も困難だった時期でさえ彼らが注いでくれた愛とサポートがあったからこそ、今の私の良い人生があるのだということも理解しています。


 たとえ私の診断が恥ずべきものであり、永遠に秘密にしておくべきだと両親が思い込まされていたとしても、私は常に愛されていました。私が泣いたときには必ず抱き上げてくれる人がいました。父は何時間も私と遊んでくれましたし(親になった今だからこそ、何時間もごっこ遊びに付き合うのに必要な忍耐力が理解できます)、母はくだらない歌を歌ってくれました。その習慣は、今では私から息子へと受け継がれています。私の子供時代は物語と魔法と想像力に満ちており、そのすべてが私に生きる強さを与えてくれました。



治療的リソースとしての家族



 


 私は現在、子どもや家族に関わる仕事をしています。おそらく、これらの経験が私のキャリアの選択に影響を与え、導いたのだと思います。若い人たちと接するとき、家族全体への支援が提供されなければ、その子の人生に本当の意味で変化をもたらすことは非常に難しいということを、私は常に意識しています。親が自分たちの強みを活かし、協力して子どもを支えられるよう支援する家族療法の重要性を、私は目の当たりにしてきました。


 もし私の両親に十分なサポートが提供されていたら、私の人生はどう違っていたのだろうかと考えることがあります。もし彼らが他の親たちと出会うことができ、信頼できる人々に話をするよう勧められていたら。もし誰かが、私の体について私に話すための言葉を両親に与えてくれていたら。そうすれば、沈黙の代わりに、人とは違っていても、それが良い人生を送るための障害にはならないということを、私が理解できるよう手助けしてもらえたはずです。恥じる必要はない、自分の中に隠さなければならないことなど何一つないと言い聞かせてもらえるよう、支えてもらえたはずなのです。


 今日でさえ、DSDsを持つ子どもを持つ親が十分なサポートを得ることは困難です。イギリスでは現在、子どもたちに対して自身の体についての真実を伝えることが推奨されていますが、親には年齢に応じた適切な方法で説明するための言葉や伝え方が必ずしも与えられているわけではありません。また、専門的な心理的サポートが利用可能であるべきだと推奨されているものの、それが適切に資金調達されているケースは稀です。あまりにも頻繁に、親たちは依然としてすべての情報やアドバイスを医師や外科医との年1回の診察に依存しており、残りの364日に対するサポートはほとんど存在しません。これでは、家族が直面するかもしれない多くの問題について話し合ったり、時に必要となる難しい会話を重ねたりするための時間がほとんどありません。親の苦悩にただ寄り添うための時間が確保できないために、複雑な問題に対して安易な解決策が提示されてしまうのではないかと危惧しています。


 ほとんどの親は子どもを愛しており、このことは子どもが自信とたくましさを持って成長するために非常に重要です。でも、愛だけでは十分ではなく、親にもサポートが必要です。そして、家族へのサポートこそが、DSDsを持つ子どもの幸福にとって最大の恩恵をもたらすのではないかと考えています。適切なサポートと資金援助があれば、子どもの家族は、偏見や恥の意識を感じることなく子どもが成長できる環境を育むための最も強力なリソースになり得ます。これこそが、dsdfamiliesのようなグループへの支援が、こうした複雑な問題に直面している家族の幸福に大きな変化をもたらし、手術と沈黙だけが唯一の選択肢ではないということを理解してもらう助けとなる点なのです。






アンドロゲン不応症女性(AIS女性)とは?




 アンドロゲン不応症(AIS)とは、女性のDSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)のひとつです。このお父さんの娘さんのAISでは、染色体はXYで性腺も精巣なのですが、男性に多いアンドロゲンホルモンに体の細胞が一部しか反応しない状態(部分型)のために、母親の胎内の段階から、まったくの女性に生まれてきました。ですが、生まれた時に性別判定検査が必要であったり、子宮や膣の一部がなく、生物学的な子どもを持つことができません。








アンドロゲン不応症(AIS)等のXY女性はなぜ女性(female)に生まれ育つのかについては,以下を御覧ください(画像をクリック)。












コメント


海外国家機関DSDs調査報告書

ベルギー国家機関性分化疾患/インターセックス調査報告書
オランダ社会文化計画局「インターセックスの状態・性分化疾患と共に生きる」表紙

​ 近年、教育現場や地方・国レベルで、LGBTQ等性的マイノリティの人々についての啓発が行われるようになっています。その中で,DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患)が取り上げられるようになっていますが、昔の「男でも女でもない」という偏見誤解DSDについての知識が不十分なまま進められている現状があります。

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 そんな中,人権施策や性教育先進国のオランダとベルギーの国家機関が,DSDsを持つ人々とご家族の皆さんの実態調査を行い報告書を出版しました。

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 どちらもDSDsを持つ人々への綿密なインタビューや、世界中の患者団体、多くの調査研究からの情報などを総合し、誤解や偏見・無理解の多いDSDsについて、極めて客観的で当事者中心となった報告書になっています。世界でもこのような調査を行った国はこの2カ国だけで,どちらの報告とも,DSDsを持つ人々に対する「男でも女でもない」というイメージこそが偏見であることを指摘しています。

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 ネクスDSDジャパンでは,この両報告書の日本語翻訳を行いました。

DSDs総合論考

 大変残念ながら,大学の先生方でもDSDsに対する「男でも女でもない」「グラデーション」などの誤解や偏見が大きい状況です。

 

 ですが,とてもありがたいことに,ジェンダー法学会の先生方にお声がけをいただき,『ジェンダー法研究7号』にDSDsについての論考を寄稿させていただきました(ヨヘイル著「DSDs:体の性の様々な発達(性分化疾患/インターセックス) 排除と見世物小屋の分裂」)。

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 今回,信山社様と編集委員の先生方のご許可をいただき,この拙論をブログにアップさせていただきました。

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 DSDsの医学的知見は大きく進展し,当事者の人々の実態も明らかになってきています。ぜひ大学の先生方も,DSDsと当事者の人々に対する知見のアップデートをお願いいたします。

 

 (当事者・家族の皆さんにはつらい記述があります)。

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ジェンダー法研究:性分化疾患/インターセックス総合論考
ジェンダー法研究:性分化疾患/インターセックス総合論考
性分化疾患YouTubeサイト(インターセックス)
ネクスDSDジャパン:日本性分化疾患患者家族会連絡会
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